簡単な自己紹介
たけちって誰?
25歳。(2022,2月現在)1996年3月18日広島県生まれ。
大学2年生の時に入った学生団体をきっかけに大学4年生まで、学業とは別の分野に熱中。大学4年時には、長期インターンで東京と金沢を毎週夜行バスで行き来する生活を1年間継続しました。
社会人になってからは人材業界で学生の集客を担当し、その後10ヶ月で独立し今に至ります。
2019年1月にフリーランスになってから、日本全国回りながら海外でも生活。場所と時間に縛られず、旅をしながら仕事ができる「フリーランス」という働き方を発信しています。
現在は、多拠点生活をしながら、フリーランスの何でも屋として、イベント事業・人材支援事業・Webコンサルティング事業・SNSマーケティング・写真・動画の撮影・Creator’s Campusのプロジェクトマネージャーとして活動しています。
ざっくり経歴
簡単な経歴をご紹介いたします。
- 1996年3月18日生まれ。A型
- 父、母、弟と4人家族
- 滋賀県草津津市で10年、石川県金沢市で14年育つ
- 小学生時代から物忘れ落ち着きのない性格勃発(ADHD)
- 中高はサッカーに明け暮れる
- 大学2年で石川県の学生団体に入る
- 大学3年の春休みから東京のベンチャー企業にジョイン(2017/2〜)
- そのまま都内ベンチャー企業にて入社し勤務(10ヶ月)
- ベンチャー企業退職(2019/1)
- 人材支援事業開始(2019/1〜)
- Webコンサルティング事業開始(2019/3〜)
- Creator’s CampusのPMに就任(2020/9〜)
- SNSマーケティング事業開始(2020/10〜)
- インフルエンサー兼ライター兼カメラマン兼TikTokerとして活動中
- 趣味:アウトドア全般、海外旅行、カメラ📸、フットサル⚽️ ランニング🏃、ボウリング🎳 ビリヤード🎱 ボード🏂ドライブ🚗 サウナ🧖♂️
- 座右の銘:自分が出来ることを他人任せにするようなヤツにこのピッチに立つ資格はない
- 頑張りたいこと:写真・動画📸
訪れた国:約9カ国(韓国、香港、マレーシア、タイ、カンボジア、ハワイ、グアム、オーストラリア、フィリピン)
ざっくり書くと、こんな感じです。
詳しく知りたい方は、このまま続けてお読みください。
幼少期:生まれた時からやんちゃばかり
1996年3月18日に未熟児に近い状態で広島県で生まれます。1996年1歳で生まれてすぐに親の転勤で滋賀県の草津市に引っ越します。
どんな子供?
- ご飯を食べず、かなりやせていた子供
- 喘息持ちの子供
- よく動き回る子供
喘息が酷くて、おばあちゃん家(広島)でばあちゃんと母ちゃんによく看病されたいました。
滋賀県の草津幼稚園に入学
この年に弟が生まれます。弟ばかり可愛がられていることで凄い寂しかった記憶があります。4歳になると今まで以上に活発に良く動き遊んでいた子供だったらしいです。
怪我も良くして走り回り、家の中でおもちゃの車に乗り窓ガラスに追突して割ったりしていた。
遊戯王カードが大好きで親によくねだっていたそうです。有名なカードを集めることが好きで、親父もやっていてこともあり一緒にやる空間・時間が好きだった記憶があります。
小学生:何事にも好奇心旺盛の小学生時代
草津小学校入学し泥団子で遊んだり、近くの公園で遊んでいました。泥団子でぴっかぴかのものを作れると凄い嬉しかったのを覚えています。
スポーツを習い始める
水泳を習い始め、最終の階級の合格が出るまでやり続けました。親から途中で断念することは良くないという風にしつけられていたので、今となっては有り難いです。
水泳自体は、苦痛ではなかったのですが厳しい先生の時はへこへこしていた気がします。笑
寂しがり屋でちょっかいをかけるような子供に
弟にちょっかいをかけてよく親父に「兄弟二人しかいないんだから仲良くしなさい!」と怒られ喧嘩していました。笑
弟が生まれてから親がかまってくれなくなったということで寂しがり屋になりました。
友達との最初の思い出
よもぎパーティーがあり、初めて友達と一緒に作ったのが嬉しかったです。友達と笑って自分の家の前で、野球のバットを自分がもって打つ場面が思い出せます。
親父を羨ましいと思ったこと
親父と電車に乗るとよく知らないおじさんやおじいちゃんに話しかけ楽しそうに世間話をしていたのがよく覚えています。
だからこそなのか、自分も一人で電車で草津に遊びにいったり京都に行ったりするときはおばちゃんと話すようになりました。
その誰とでもしゃべってコミュニケーション取ってる姿を見ていて「いいなあ!」と思いました。
名探偵コナンが大好き
家族で毎月、コナンの映画をみるほど大好きです。24歳の現在も毎年友達と見に行っています。映画の前売り券についてくるクリアファイルが集めています。
漫画も全巻そろっています。コナンからは、沢山の知見や知識が得られるのでオススメです。
大嫌いなサッカーを始めたきっかけ
小学4年生でサッカーのスポーツ少年団に入りました。友達に誘われ始めたのですが自分が一番下手で、チームメイトに試合で「負けたのはお前のせいだ!」と責められながらも親には「行きなさい!」といわれ嫌々通っていました。
試合でミスをすると全て自分のせいにされずっとやめたいやめたいと思っていました。
自分と同じくらい下手の子と一緒にいることが多く、試合でその子が責められていて自分がほっとするようなときもありました。
生死の境を初めてさまよう
10歳の頃、近くの堤防でソリに乗って遊んでいて、スピードを出しすぎて止まらなくなり、下のコンクリートに頭を打ち救急車に運ばれ、生死の境をさまよいました。
顔に大きな傷が付きました。親父がずっと心配してくれて、救急車も一緒に乗ってくれて、入院中も看病してくれていました。
この時は、本当に記憶がなく気づいたら病院にいました。親父が側にいてくれなかったらどうなったことかわかりません。
大好きな草津を離れ金沢へ
11歳の小学6年生になるタイミングで、親の転勤により草津から金沢に引っ越しました。草津の友達と離れるのがすごく嫌でした。
草津に愛着もあり、10年住んでいたので、すごい泣いてショックだったのを覚えています。
小学6年生で、金沢に引っ越し新しい土地で分からないことが多かったが、サッカーを通して金沢でも友達ができたので助かったなと思います。
いじめを知ったきっかけ
草津にいた時は、他の子がいじめをしているのを見ていました。悪口を言われたり、入っているはずの靴箱がなかったりという光景をみて、初めていじめという行為を知りました。
僕は、草津にいた時はいじめられたという感覚はありませんが金沢に引っ越してからは、悪口・陰口を言われたり、顔に怪我があったのでいじられたりとつらい経験もしています。
中学校:成長している自分を感じてた時代
12歳で地元の長田中学校に入学し新しい人と出会う中学校は、緊張もありましたが比較的自分から話しかけていました。
中1で小学校からずっとやっていたサッカー部に入りました。練習がもの凄くきつかった(毎日6kmラン)ですが、小学校のサッカーチームの繰り上がりで友人が多かったのでやりやすかったです。
小学校から一緒だった人がいると話す人もいるし遊ぶ人もいたので一人にならず安心できていました。
少しだけ受けていたいじめ
自分の性格上、目立ちたがりで少しでしゃばることもあり、悪口やいたずらなどいじめっぽいことを受けるが、気にせず学校生活を送っていました。
基本的に気にすることはなく、つらいことから目をそらしていました。
サッカー漫画「エリアの騎士」にどハマり
エリアの騎士は、サッカー漫画です。
あらすじは、鎌倉学館中等部サッカー部主将・逢沢 傑はU-15日本代表の10番を背負っていました。その弟・逢沢 駆が主人公でオリンピックで日本代表として活躍するまでの苦難や成功が綴られています。
エリアの騎士も全巻持っています!
金沢から高槻へ(1ヶ月半)
中学3年生になった4月から6月まで、親の転勤で自分と親父だけ大阪の高槻市のばあちゃん家で暮らすことになります。
弟は、サッカーと水泳の選抜チームで活動していたので、母と金沢を残ることになりました。
しかし、冒頭でもありますが、4月〜6月の1か月半で金沢に自分だけが戻ることとなります。理由は、おばあちゃん家で暮らすのが合わなかったのと自分の体調が環境に合わずどんどん悪くなったからです。
高校生:ぱっとしない・つまらない時代
高校に入ると、学校の規則により部活に所属しなければいけなかったので、部活はテニス部に入ります。
テニスの部活は参加していましたが、テニスが好きだったわけではなかったので、1人だけ孤立して、ボールで遊んだり、打ったり走ったりしていました。
元々中学までやっていたサッカーは、FC.TONユースで続けます。なので、サッカーはユースで続けて、部活はテニスをするというような感じです。
クラスでは、クラス内であまり友達ができず、1人で孤立していた気がします、あまり覚えていないですが勉強もせずバイトをしてのうのうと暮らしてました。
中学の友達と遊ぶ高校2年生
友達はいたが高校にはあまりおらず、中学の友達とよく遊んでいました。
夏ぐらいに髪を染めていると同じ学校の不良グループにからまれ嫌がらせをされたりもありましたが、言い返すこともなく我慢して「学校やめようかなぁ」と思うことも多々ありました。
先生に歯向かうことも多々あり、(口答え、無視)遅刻日数はどんどん多くなっていったのも覚えています。
いわゆる、、、反抗期、、、というやつですね。学校を欠席することもあったり、遅刻すると怒られるので、朝礼が終わるまでトイレに隠れていることもありました。
大学受験を迎える高校3年生
大学に進学するにあたり、文系か理系を選択する年になり、自分は数学・算数が昔から好きだったので「理系」を選択しました。
理由は、親が理系のほうが将来良いみたいな雰囲気の言葉を発していたことと、自分の親父と親戚が理系だったからという他人行儀な思考で選んでいました。
この頃の自分は、親父の背中を見ていたんだと思います。
大学生活:大学受験失敗で道を外す時代
大学受験に失敗し金沢工業大学に入ります。これは本当にショックでした。
高校3年間の1年間、東進衛星予備校に通わさせてもらい、親が何百万というお金を塾に払ってもらったにも関わらず、大学受験を失敗したので、申し訳ないという気持ちでいっぱいでした。
価値観の確立
大学生になってから、毎年中学のサッカー部と小学校のサッカーチームのご飯会の幹事を務めることとなります。
基本的に僕は、「みんなでワイワイするのが好き。」みんなと笑って昔話や今の現状を話してる姿を見るのが好きです。
大学1年生はバイト三昧
僕の通っていた大学が遠かったのとバスの時間が早かった(もっとぎりぎりまで寝てたい)のと荷物も多かったので、車が必要だと思うようになりました。
石川県は雨も雪もたくさん降るので、車は必須です。
なので、「車を買いたい!」という欲からバイト三昧の日々を過ごし、学業をしての大学一年生の時間を過ごしました。
大学2年生で学生団体というものと出会う
僕は大学2年生になると学生団体g.rappaに入ります。この団体と出会ったことが自分の人生を大きく変えたと思っています。
よりレベルの高い学生(話し方・思考力・考え方)が集まっていて関われることが凄く楽しかったです。
その半面、自分の力の無さを痛感しました。
入った当初は、なにもできず足手まといだったにもかかわらず、先輩方に可愛がってもらい、代表が気にかけてくれる方だったので、毎回会議に行くのが楽しみでした。
サッカーコーチのアルバイトに挑戦
アルバイトのメインとしてサッカーコーチのバイトも大学2年生から始めました。
働き始めて、子供が好きだということ、成長する過程を見るのが好きだと感じました。
子供は、無邪気で純粋で、子供達くらい一緒くらい自分も子供なので、気が合うような感じがして楽しんでいました。
大学生活の中で大きな分岐点
大学3年生が精神的なUPとDOUNが今まで生きてきた人生の中でも1番だった(恋愛でも学業でもキャリア形成でも)と感じています。
数えきれないほどの社会人の方々、切磋琢磨できる学生、金沢に限らず全国各地から集まり、東京でお会いした方々(社長さん、人事の方々、学生達)など。
イベントに行くことが多かったですが、相手との対話が次のイベントに足を運ぶ一歩にも繋がるんだと認識しました。
自分には「こんなにも知らないことが多いんだ」と思ったので、様々なイベントに参加するようになりました。
大学2年生に就職の方向性が決まる
大学では、建築を学んでいたのですが、数多くの建築業界のインターンに足を運んだ結果、自分の道は建築にはないと悟りました。
建築の施工管理の現場だと毎日同じことの繰り返しで、月~土まで好きでもないのに働いて自分の時間もなさそうな様子をみてしまったからです。
建築のインターンにいくようになったは、社会人とお話しするイベントで出会った人から
「自分が就くであろう職業だからしっかり自分で見てきなさい」
という言葉をいただいたからです。
大学の友人に「インターン行った方がいいよ」と言われても何も響かなかった自分ですが、社会人の偉い人が言うのだから行くべきだと思い一歩を踏みだしました。
インターンを終えると社会人の人が自分に強く言っていた言葉の意味が分かった気がしました。
アルバイトへの違和感
バイトは、高校1年生から働いていたモスバーガーを辞めて、サッカースクールで生計を立てやりくりしました。
モスで働く「人」は良かったが毎日同じ作業の繰り返しで大学生活のバイトの時間がもったいないと思うようになり、バイト行く時間を”イベントに行く時間”に変えました。
他にも本を読んだり、自分のスキルになる時間に費やした方が良いと思うようになっていました。
フルマラソン・ハーフマラソン怪我しながらも完走
大学2年生の3月にフルマラソン、ハーフマラソン完走しました。1年間トレーニングをしてきたこともあってかなり達成感がありました。
フルマラソンを走る時点で、走りすぎで足を痛めていたのですが、注射を打って無事に完走しました。
フルマラソンを走った1週間後にもハーフマラソンを走りました。その時は、怪我の状態でも自分の自己ベスト記録が出たので、「言い訳する暇があったらやってみるもの」だと学びました。
学生団体g.rappaの代表に就任
新年度の代表が急遽やめたので、誰も代表に名を上げなかったのことと先輩達の作り上げた空間がなくなるのは嫌だったので、自分が手を上げました。
自分は何も残せなかったですが、g.rappa存続不可能みたいな状態から、3人でよく立ち上げ直せたと思います。
新しいメンバーが入り、一人一人の意識の差は感じましたが、まずはみんなが“楽しいかどうか“を一番に考えました。
メンバー参加型のイベントを定期的に開催して、新しいメンバーを募りました。
他団体、他地域との交流
代表になったことで、他の団体の子と仲良くなります。そこでまた、凄いと思う学生とたくさん会います。
とあるイベントで、初めて議員さんに会い、今まであった政治家に対するイメージがガラッと変わりました。社会人の人と話すと自分の価値観、既成概念を壊してくれると気づきました。
学生団体のイベント・社会人のイベント・セミナー・講演会、Facebookで見つけ一人でも行くようになります。
大学3年生で彼女ができる
出会ったきっかけはとある交流会でした。学生団体のつながりもあり、共通する部分が多く付き合いました。
水族館に遊びに行ったり、夜景を見に行ったり、今思うと懐かしい思い出の一つです。とはいえ、11月になって彼女と別れます。笑
俺自身はめっちゃ好きだったと思うのですが、その時のことを振り返ると自分が忙しくて、自分の対応が悪かったんじゃないかなと思います。
ゴリゴリの東京就活の幕開け
大学3年生で、就活を考えはじめ夏に建築のインターンに行ってから建築の道を辞めた自分が冬から東京就活に挑戦します。
多くの就活サイトを利用して、東京の会社の社長・人事の方にアポを取り、「自分が何をしたいのか」などのキャリア形成などを一緒に考えてもらいました。
自分で将来のことを考えてもわからないのでアドバイス・フィードバックをもらえるように足だけは動かすことが大事
東京で就活をして思ったのは、他の地方の学生、活き活きとした人事と出会えるんだなということです。東京の会社って面白いことやってて、仕事の早さも凄そうだーと感じました。
金沢學生団体總会の運営
イベントまでの準備は大変でしたが、今までで一番、濃い時間を過ごした気がします。自分ができないことを数多く知ったし、未熟だな~と感じました。
総会が終わった後の懇親会でいわれたのは、
たけちは「總会の準備期間凄い楽しそうだったと、でも仕事だからもっとしっかりやりなさいと」でもメンバー二人は追いつめられると凄く暗そうにやっていて、自分はそれが嫌だった。
自分はあまりスキルがなかったので、自分にできることしかできなかったし、自分が作ったものをチェックしてもらっていたので、たくさん迷惑かけたと思います。
社会人:新卒で入った会社を10ヶ月で辞める
大学4年生から内定先のインターンで東京と金沢を毎週行き来し、全国47都道府県の学生を巻き込むイベントを企画・運営、学生のキャリア支援を行っていました。その他イベント多数参加、登壇しました。
なので、大学3年生の2月から内定者インターンで働いた会社にそのまま新卒として入社しました。ただ、入社してから10ヶ月で退社します。
理由は、いろいろあるのですが、それ以上に得られたもの方が大きかった気がします。今は、その学んだスキルや経験のおかげで仕事をもらえてたりします。
約1年10ヶ月間お世話になったという形です。
会社では主に
- 就活イベントの企画・運営、学生集客
- TASUKAKEメディアの運営
をしておりました。
フリーランス:2019年1月新たなスタート!
会社を退職した後は、フリーランスとしての道のりが始まりました。フリーランスになってから下記の記事で詳しく記載しておりますので、ぜひご覧ください。
将来:今後の展望
同じ価値観、考え方、思いを持った人たちと働いていて、シゴトとしては、社会に何かしら影響を与えられて、自分たちも「想い」をのせることができる仕事をしていたいと思います。
また、「楽しく活き活きと働いているイメージ」が理想です。そのためには、20代という一番大事な時間をできるだけ仕事ベースで重きを置いて過ごしたいと思います。
誰よりも多くの経験をして失敗をして、立ち上がって行こうと思います。
以上でこの記事は終わりです。是非一度自分の人生を振り返ってみてはいかがでしょうか。
では、またどこかでお会いしましょう!!
ご相談や質問等はTwitter・Instagramにてお待ちしております。
最後まで読んでいただきありがとうございました!